怒りに身をまかせたら

毎年この日になると騒いでいる気がしますが、12月14日は、赤穂浪士の ”討ち入り” があった日です。

そこでなんとなく頭に浮かんだのが ”明日またるる その宝船”

これなんだったかな・・

調べてみて、そうそう 💡

赤穂浪士の一人、大高源吾が討ち入り日の夕方、両国橋で俳諧仲間の師匠とバッタリ会いました。

”付け句” というのがあるんですね。

一人が上の句を詠み、それを受けて別の人が下の句を詠む。

師匠が ”年の瀬や 水の流れと人のみは” とその橋の上でとっさに詠んだのを受けて、大高源吾は

”明日またるる その宝船” と返しました。

明日になれば討ち入りが終わり、長年の念願がかなう・・ という心情を詠んだのです :::ico17:::

これは討ち入り直前の名場面として、よく語られています。

 

討ち入りといえば諏訪人として忘れてはならないのが、吉良義周公。

 

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                赤い山門が目印 諏訪大社上社本宮に隣接する「法華寺」です。

 

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                  吉良義周公は討ち入りで討たれた吉良上野介公の嗣子。

        討ち入りの日も現地にいて、攻めてきた赤穂浪士に応戦はしたものの、

        後日幕府の大目付から ”仕方不届” として諏訪に流罪とされました。

        諏訪の高島城に幽閉されていましたが、なんと21歳の若さで失意のままに亡くなったとか・・

 

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                   その吉良義周公のお墓が、この法華寺にあるんですね。

 

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                          山林の中にひっそりと佇むお墓

                          無念だったろうな・・ 

 

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                  法華寺で忘れてはいけないのが、もう一つの ”事件”

          武田家を滅ぼした後、諏訪までやってきた織田信長公がこのお寺に逗留。

          なにかのきっかけで家臣である明智光秀に激怒して、寺の欄干に頭を打ち付けたとか :::ico45:::

          この時の恨みが「本能寺の変」の一つのキッカケといわれています。

 

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                上社近くの建物の格子越しに、積雪の八ヶ岳がきれいに見えました :::ico7:::

 

しかし思うんですけど、討ち入りのキッカケとなった浅野のお殿様の ”殿中でござる”

我慢できなかったかなあ・・ 

怒りをグッとこらえて、後日、陰湿な復讐をするとか 8)

いや、武士だからなあ

辱めを受けたら無理かあ

信長公も法華寺から雄大な八ヶ岳を眺めて、光秀への怒りをグッとこらえることができなかったかなあ・・

でもこれらの ”怒りに身をまかせた事件” があって、ダイナミックな日本史になったんですね :::ico63:::

僕はこのような歴史の教訓をふまえ、K日を筆頭とする ”年長者を敬うことを知らない若者” から受ける屈辱の数々に対しても

怒りに身をまかせず、来たるべき復讐の機会を虎視眈々と狙っています。ふふふ・・                小松 明